「事例から考えるネタとベタとメタ」ということで。
題材はこちら↓
何故「ネギま!」が大成しないのか?(ekken♂)
この記事では、下記の通り、幾重にもマジレスをしないようにとの注意書きがある。
(テキトーこいてますので、マジレスはご遠慮ください)
(くどいようですが、僕は「ネギま!」はほとんど読んでいないので、赤松ファンからのマジレスによるクレームはご遠慮ください)
……と、「ネギま!」を連載開始当初の二回くらいしか読んでいない僕が、全て憶測で語ってみました。ほとんどデタラメ書いているので、赤松ファンの方は石を投げてこないように。
こうしたやり口を「釣り(=ネタ)」として認識するかどうかで、反応の仕方が変わってくる。
釣りだと認識しない場合、これは「マジ(=ベタ)をネタと言い張ることで批判を回避しようとしている」のだと見る。つまり、この記事の本質はネタではなくベタだと判断しているのである。ゆえに、マジレスする。マジレスのパターンにも何通りかある。脊髄反射的に感情的反発を表すものや、ネギまに関してより分析的で妥当と思える論を提示するもの、あるいは「ネタと言い張ることで批判を回避しようとしている姿勢」を批判するものなどが実際にあった。
こうして釣られた反応の中でも特にベタなものが「ネタにマジレスするやつ」として嘲笑の対象となる。
以下は嘲笑している例である。
はてなブックマーク - 【駄文】tara’s diary【雑文】
ekken 『[ekken]ほら、やっぱりネタにマジレスする人がいた! 読む気になんねぇだよ、あからさまにつまらなそうで。』
(↑本論には関係ないが、なぜか洋画の吹き替え的ズーズー弁が使われている)
しかし、「何故ネギま!が大成しないのか?」という記事は「マジ(=ベタ)をネタと言い張っているように見せかけることで、反発的反応を促している」、手の込んだ釣り(=ネタ)記事なのである。ここでは、記事の本質(ネギまという漫画に対する分析)がマジかネタかということはさほど重要ではなく、コミュニケーションのスタイルとしてネタ的であるということが重要になる。
そして、これを釣り(=ネタ)と認識しているものどうしの間で、ネタ的コミュニケーションが行われる。それはこの記事のブックマークについたコメントを見るとよくわかる。
はてなブックマーク - ekken♂:何故「ネギま!」が大成しないのか?
記事を書いた本人自身がブクマに登場し、コミュニケーションをしているところからもそれは明らかだ。
ekken『[ekken]赤松言及サイトをいくつか見て、赤松本人の才能はすごい、と思ったけど、信者にバカが多いのが難点だ。↑納得。』
ネタ的コミュニケーションは、ネタを媒介とした内輪的コミュニケーションの形式である。ここでは、ネタにマジレスした人を高みから見下して嘲笑し、同じ嗤いを共有できるものとの間でつながりを強化している。
こうしたネタに対し、同じくネタのスタイルで皮肉的に批判をしたのが、「何故「ekken♂」は大成しないのか?」(VANILLACHIPS)という記事だった。パロディのスタイルを取ることで、ekken氏が「批判を回避している(ように見せかけつつ釣りをしている)こと」を皮肉ったのである。
この記事もネタ的スタイルを取っていたわけだが、そうしたスタイルのコミュニケーションであることを理解するかどうかで、記事への反応も異なる。一方の典型例は、下記の2ちゃんねるでの書き込みだろう。
105 :名無しさんの次レスにご期待下さい :
えっけんは基本的に個人攻撃ばかりやる、大勢で来たら反論しないくせに
はてなブックマークでは本音だしまくり。
→http://b.hatena.ne.jp/ekken/
ついでにこんな面白い記事を見つけた
→http://vanillachips.net/archives/20060210_0844.php
これはネタをベタに受け取った例である。コミュニケーションのスタイルは考慮になく、意味内容を「皮肉なekken批判」として受け取っている。
記事の意味内容よりも、コミュニケーションのスタイルとしてネタ的であることを重視した人たちの反応は、はてブのコメントに表れている。
はてなブックマーク - [V]: 何故「ekken♂」は大成しないのか?
皮肉な批判であることより、ここでは返し方がネタとしておもしろいことが重要視されている。それは批判を受けている当人であるekken氏が
こういうネタこそトラックバックが欲しい! ちゅーか俺、「とりまき」が四人もいるのか! やだなー、鬱陶しくて。
と、ネタとして見ていることからもわかる。
つまり、ネタ的コミュニケーションにおいては、たとえそれが批判であっても同じ嗤いを共有するということでの共犯的関係が生まれる。よって、第三者から「クネクネしている」「馴れ合いだ」との批判もあり得る。
コミュニケーションにおいて、その意味内容よりコミュニケーション自体に意味が生じるという点で、ネタ的コミュニケーションも一種の馴れ合いということが可能であり、こうした馴れ合いは「殺伐とした馴れ合い」とでも呼べるだろう。
ネタに対し、ベタに返せばマジレスすんなとバカにされ、ネタで返せば馴れ合いとなる。それではどうするか。
メタな視点から批判する、という手がある(*メタな視点はネタ化のときにもある)。しかし、再反論としてメタ的手法が使われると、これは常に相手より高みを取ろうとするポジション・ゲームに陥る危険性が出てくる。イメージ的に一番わかりやすいのは、ソーシャルブックマークのコメントによる批判に対し、ブックマークページをさらにブックマークし再反論するやり方だろうか。
さて今回の例では、ネギまファンの中でも、釣りだとわかっていてスルーした人もいれば、釣られた人もいるわけで、表面化するのは主に釣られた側だけである。要するに、もともと仕組みとして釣られたものだけが可視化されるようになっており、それを指して「バカが多い」などと見下すやり方には「大人げね」と感じる。
…などと書いたものに対し、「なぜこのfudaという人はこういう批判をするのか考えてみた。それは…」などとさらにメタな位置から論じる人が出てくれば、前述したポジション・ゲームになってしまうわけである。
そう考えると、マジレスするのが、実は一番真っ当なやり方のような気もしてくる。感情的反発をするだけがマジレスではない。場の空気を変えるほどの真っ当なマジレスであれば、おそらくそれが一番強い。
ネタに対してはスルーする強さも必要だという議論があったのに先ほど気づいた。しかし、スルーする強さは、関わらない弱さとも表裏一体であり、判断の難しいところでもある。
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